高崎家古文書
◆高崎家とは
 高崎家とは、筑前五十二万石を治めた黒田氏が慶長五年〔1600年〕に豊前中津から筑前五十二万石に転封となった折に供をして移ってきた旧家です。
 初代高崎喜右衛門が小石村の庄屋役を仰せ付けられて以来、明治五年に庄屋役が廃止されるまでの270年間、高崎家は郡奉行の支配の下その役を務めました。高崎家は、庄屋では破格の待遇を受け、黒田家の若君の婚礼の時は城内に招宴を受け、又、他の庄屋の手当て米が年間二十俵、三十俵であるのに対し、年間百俵の手当て米を受けていました。
 文化、文政の時が最盛で藤木沖の葛島を始め、遠賀郡内、戸畑にいたるまで広く田畑を所有していたそうです。
 小石校区の鎮守である日吉神社の境内は高崎家寄贈によるもので当主高崎宗雄氏はその氏子総代を勤められています。



◆高崎家古文書
 その高崎家に保存されていた文書に対して、約20年前に福岡県の調査団が、また、近年北九州市の調査団による調査が行われ、360点余の膨大な資料を発見しました。修多羅米蔵〔倉浜町〕記念石碑の見取り図は高崎家古文書からのものです。
 それらの貴重な資料の一部が地区の文化祭で公開されましたので、以下紹介します。

◆水帳
 慶長年間、黒田藩の命により年貢米の基礎となる
租税の資料を作成するため田畑の収穫高を克明に
記録したもの。
◆塩田
 中世、麻生氏の統治下、文政五年〔1448年〕弘家の知行目録に塩浜の存在が確認されている。
 明和三年二町歩あった修多羅に四反七畝、新たに開く。文化九年、若松村に二町歩。文化十四年新たに五反七畝開くなど。



◆木履
 明治十六年、大庄屋源六郎の子息正三郎に貴族院議員堤氏の娘、セツ女が輿入れした折に履いた物で金蒔絵の漆塗りである。
 舟で行橋村の海岸を出て、小石〔赤崎〕の海岸につき、先頭が小石本村の高崎家に到着しても、その行列のしんがりは赤崎に居たという。

◆高崎家に伝わる品々

◆連綿と続く高崎家の系図